お経って、今までの人生で、お葬式や法要の時に一部唱和するくらいで、縁がなかったというか、興味がなかったというか、よくわかっていなかったのですが、俄然おもしろくなってきました。
もともと般若心経は、お釈迦様の教えがインドの言葉で書かれていて、それがチベット語に訳され、それをあの三蔵法師が中国語に訳され、それがそのまま日本に来て日本語読みされているのです。
だから、私達はお経が何を言っているのかぜんぜんわかんないのですが、中国人やチベットのひとはわかってるみたいなのです。
お経がただの音(もちろん音のちからというのは大きいとおもうけど)ではなくて、意味がよくわかったら、それもおもしろいなぁと思います。
今回の振り付けは、なるべくその言葉がよく伝わるように、シンプルに、わかりやすくをこころがけています。
あわせて日本語の詩も組み込んで、サンスクリットの歌と日本語の詩と踊りでつくろうと思います。
「自由自在に 世界を 観ながら 人々とともに
歩んでいこう 道をもとめていこうとする かんのんが
深い ちえに よって ものを みつめる 修行の なかで
ある 考えに たどりついた。
わたしが いる。 もろもろの ものが ある。
それを 感じ
それを みとめ
それについて 考え
そして みきわめることで
わたしたちは わたしたちなので ある。
しかし それは みな
「ない」のだと
はっきり わかって
一切の 苦しみや わざわいから
抜け出ることが できた。
ききなさい しゃーりぷとら。
「ある」は「ない」に ことならない。
「ない」は「ある」に ことならない。
「ある」と 思っているものは じつは 「ない」のである。
「ない」と 思えば それは「ある」に つながるのである。
「感じとる」。
「みとめる」。
「考える」。
「みきわめる」。
どれも また そのとおり。
ききなさい しゃーりぷとら。
在るものは すべて「ない」のである。
「生きる」も ない 「死ぬ」も ない。
「きたない」も ない 「きよい」も ない。
「ふえる」も ない 「へる」も ない。
つまり。
「ない」という そのなかには
「ある」もない。
「感じとる」も 「みとめる」も
「考える」も 「みきわめる」も ない。
「目」も 「耳」も 「鼻」も 「舌」も
「からだ」も 「心」も ない。
「いろ かたち」も 「こえ」も 「におい」も 「あじ」も
「さわれるもの」も 「思いを おこすもの」も ない。
「目で 見る 世界」も ない。
「心に 思う 世界」も ない。
目で 見る 世界から 心に 思う 世界まで
人の 心の はたらきは いろいろ あるけれども
そのどれも ない。
また そのはたらきが なくなることも ない。
「ものを 知らぬ 苦しみ」も ない。
「ものを 知らぬ 苦しみ」が なくなることも ない。
「老いて 死ぬ 苦しみ」も ない。
「老いて 死ぬ 苦しみ」が なくなることも ない。
ものを 知らぬから 老いて 死ぬまで
人の 生きる 苦しみは いろいろ あるけれども
そのどれも ない。
また その苦しみが なくなることも ない。
生きるための 苦しみも ない。
苦しみを つくりだす 迷いも ない。
苦しみや 迷いが
いつかは なくせるという 希望も ない。
苦しみや 迷いを
なくそうという 努力も ない。
「知る」ということも ない。
「得る」ということも ない。
つまり なんにも 得られない。
だから。
道を もとめるものたちは
このちえに したがうのだ。
それで。
心に こだわるものが なくなる。
こだわるものが なんにも なくなる。
だから。
恐怖を 感じることも なくなる。
一切の 迷いから 遠く 離れ
苦が なくなる 心が すみきる。
現在 過去 未来
目ざめた人たちは いつも
このちえに したがって 生きてきたし 生きていくのだ。
それで。
はっきりと 目ざめることが できるのである。
だから。
知っておきなさい 向こう岸に わたれる このちえ。
これは つよい まじないである。
これは つよくて あきらかに きく まじないである。
これは さいこうの まじないである。
これは ならぶものの ない まじないなのである。
どんな 苦も たちまち のぞく。
ほんとうだ。うそいつわりでは けっして ない。
だから。
おしえよう このちえの まじないを。
さあ おしえて あげよう こういうのだ。
ぎゃーてい。
ぎゃーてい。
はーらー ぎゃーてい。
はらそう ぎゃーてい。
ぼーじー そわか。
般若心経でした。」
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